第一章第二章第三章第四章第五章第六章第七章第八章第九章第十章第十一章第十二章

前へもどる。次へ進む。 
 
 
---------- 第二章「ライカを伝えた日本の伝道師たち」 ----------

 エルンストライツ社の日本代理店は、明治末期にはあったようです。ただし、その時代にはライカのカメラは発売されておらず、顕微鏡が商品でした。 1920年代中期に、ライカをいち早く日本に持ち込んだのは、写真が趣味の陸軍軍人石原莞爾とされています。彼の名は、昭和史に於いて重要な名前です。陸軍参謀として満州事変の火付け役といえるでしょうか?彼のことはここでは関係ありませんので省きますが、陸軍軍人石原莞爾の書籍はたくさんありますので、書店等でお探しください。
(Leica IIIC 1940〜1951年製)
◎製造 no360175〜525000
↓写真(1940年製)

(Leica IIIA 1935〜1948年製)
◎製造 no156201〜357186
↓写真右 Leica IIIA(1938年製)
↓写真左 Leica IIIC(1946/47年製)

 第一次世界大戦後にドイツに、留学していた彼は、発売直後のライカを見つけます。最初はたいしたことのないカメラだと店員に言われますが、これからのカメラだ!と思いたった彼は、さっそく日本にライカを持ち帰ります。500番台初めのライカは、カメラの近代化に築いた軍人によって日本に第1歩を記します。この機体は現存しないとされていますが、どこかに眠っているのでしょうか? ライカは、第1歩を日本に記しましたが、広める伝道師が必要になります。旧代理店の社員で、ライカにほれ込んだ井上鍾と、代理店社長のパウルシュミットをライカの伝道師と呼んでも過言ではないでしょう。これからのカメラの主流になるとシュミットは見たのでしょう。その後、井上に渡し使い込ませます。カメラにほれた井上は、シュミットから許可を得た上ですばらしい活躍をします。戦前の代理店が発行したパンフレットのほとんどは、井上が書いたとさえ言われ、その中でも有名なものに「降りかかった火の粉は払わねばならない」という名パンフがあります。

 距離計連動コンタックスとライカのファンの間に起こった論争に、旧代理店が発行したパンフレットですが、井上が投げた名文はコンタックスファンを驚かせたほどです。ただし、本国に論争が起こったことが伝わったときは、第2次大戦が勃発したころで、本国では不思議がられたといい、起きえたとしてもそれどころではなかったでしょう。井上のライカに対する思い入れは、その後明石正巳が引き継ぎます。井上と明石の2人とコンビを組んで、その他にライカを愛用した木村伊兵衛もまた、伝道師に加えても差し支えないでしょう。 アサヒカメラ戦後復刊第1号の表紙を飾った木村伊兵衛の写真は、新しい時代の息吹と思える女性の写真でした。戦前から報道の分野で活躍していましたが、その中にも、ライカの特性を感性で使いこなした、街中の人々の生活の写真がありました。戦後はアマチュアの指導もしながら、ライカ使いの名人として活躍し続けました。 ライカ使いの名人でありながら初代のニッコールクラブの会長や、アサヒカメラのニューフェース診断室のドクターをなくなるまで続けた、ライカ使いの神様です。

次回(第三章)に続く!

(木村伊兵衛の愛用したLeica M5)
 
 
前へもどる。次へ進む。 


レモン社 Co.,Ltd. 2000-2005 All Rights Reserved.