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---------- 第三章「ライカの戦時中の歩み」 ----------

 順調に伸びてきたライカに、そう第二次世界大戦に試練が訪れます。ライカのようなシステムカメラは、カールツァイスが、カメラ生産部門に当たるツァイスイコンに作らせた、コンタックスぐらいでしょうか?ほかにも、世界最初の一眼レフであるエキザクタなどがありましたが、ドイツ軍はライカかコンタックスしか使わなかったようです。


世界最初の一眼レフカメラ(年式1935年頃)

キャノン最初の試作機 /カンノン
(年式1935年頃)
生産第一号機/ニッコールレンズ付
(年式1936年頃)

 そのころの日本はどうだったのでしょうか?日本のカメラの歴史をさかのぼってみましょう。上海に出かけることの多かった、機械屋の吉田五郎(l900-l993年)が、ライカを見て“これだったら俺にも造れる!”とばかりに、自分の知識やネットワークを駆使して、試作機(カンノン)をつくり始めます。キャノンの源流は、ここから始まります。今で言う当時のベンチヤーな人材だったといえるでしょう。創めた場所は、東京の旧防衛庁の近くでした。しかし、機械工学を本格的に学んでいない吉田と、そのころの日本の機械技術ではライカに追いつけません。ライカをまねたカメラを作るので精一杯でした。その後、日本人が気にもしなかった特許の壁にもぶつかります。特に光学部門は、どうすることも出来ませんでした。当時の国内光学技術の最高峰の日本光学(現ニコン)しか、頼る場所はありませんでした。太平洋戦争前に発売されたキャノンカメラには、ニッコールレンズが付いていたのです。今考えると怖いものなしの組み合わせです。何とか出来たキャノン戦前型は、いくつかのバージョンがありますが、陸海軍に正式採用されましたが、戦局の悪化により、割と早い時期に生産停止に追い込まれます。その後は、逆に日本光学の下請けとして終戦を迎えます。


 ドイツでは、旧西ドイツ側のライカのあるウェッツラーは空襲も受けずに、戦後すぐに生産を開始しました。ライカの名声が、ウェッツラーを空襲から救ったのかもしれませんね。しかし、旧東ドイツ側ドレスデンのツァイスイコンは、有名なドレスデン空襲で壊滅的な打撃を受けたカールツァイスイエナは、戦後米軍にエンジニアを引き抜かれ、カールツァイスオーバーコッヘン(現カールツァイス)と分離し、ソ連軍の占領下となった東側のツァイスは苦難の道を歩みます。コンタックスは、キエフとして旧ソ連で生産されます。西側で生産されたコンタックスは、1950年代末期に終焉をむかえ、ツァイスのカメラ生産は、1972年で終わります。その後、ヤシカ(現京セラ)との共同開発一眼レフ(コンタックスRTS)として名前は生産再開しますが、ドイツツァイス製のカメラは生産再開はしませんでした。一方でライカも、会社経営が苦難の道を歩みますが、エルンストライツ社からライカ社と名前が変わり、今なお生産をしています。小さな町工場からはじまったライカが、財団ツァイスを超える存在になったことは言うまでもありません。       

次回(第四章)に続く!


ヤシカ(現京セラ)とツァイスの共同開発 コンタックスRTSとレンズ群


旧ソ連カメラ/キエフ(年式不明)

 
 
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