| 戦前からのライツ社には、フィルムの入れ難いことなど、様々な苦情があったようですが、ライツ社はオスカーバルナックの生存中には表立った動きをせず、彼の死後からライツ社はライカの開発に本格的に取り組み始めたようです。
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IV型と呼ばれるライカのボディは、現在で言うバルナック型ライカに準拠したデザイン設計ですが、その後の開発で、一軸式不回転シャッターやファインダーの大型化、裏蓋の開閉などの現在のM型ライカの基本設計の機能がここで搭載されています。
第二次大戦中は、軍需産業が主流となりライカの生産は1944年にほとんどなくなり、戦時中にそれまでに作図されたIV型の図面は工場の壁に塗りこまれて、保存されたと言われています。
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その後、ライツ社は不安だらけであった品質も落ち着いた1950年に、IIIfをライツ社の主力商品としてとして、1954年のフォトキナM3ライカを発表しました。それと同時に全世界の市場に一斉に5000台のM3を発売されました。
近年のフォトキナやカメラショー、またPMAなどの展示会ではそのショーだけで商品を見ることが出来、実物のカメラ等は半年から一年先まで市場に発売されないなど時差がありますが、1950年代にはもちろんインターネットも無く、航空貨物も現代みたいに発達していない時代に、事前に全世界販売を見据えて各国語版の説明書とパンフレットを作り、M3を5000台を用意して、発表と同時に一斉に市場で発売したという、いやいや、やってしまったライツ社!そのころのライツ社の底力には、当時のカメラ業界関係者は当然驚いたでしょう。この話を知った私もびっくりしました。
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Leica IIIf

Leica M3
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ライカに追いつけ追い越せだった、世界の各メーカーは、ライツ社の見学に行った者に、まだ外貨が貴重だった頃に外貨をやり繰りして買って来る様指示を出したと言います。各業界団体も、手本とするライカの新型と言うことでカメラを購入し、同時期のライカ以外のカメラを含めて技術研究書を作り出版しています。
そのころの日本から見ると、ライカのハイテクで、マイスターで芸術的なファインダー光学が解ると、感嘆と落胆の声が上がったぐらい技術の差は明らかでした。その芸術的なファインダー光学系は、日本のカメラメーカーの方向を変えさせます。。。
次回に続く!
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